2024年 11月14日

2024年11月14日

第12回 史跡探訪
訪問先 : 三宝院・醍醐寺
講 師 : (株)らくたび 山村純也先生
《三宝院》京都市伏見区醍醐東大路町22
醍醐寺の塔頭の一つで、永久3年(1115)権僧正勝覚(14世座主)が創建した山伏修験道当山派の総本山である。
文明の兵乱後、義演僧正は秀吉の庇護を得、諸堂を再建した。庭園(国特別史跡・特別名勝)は池泉庭園で、桃山時代の明るく華やかな雰囲気が今も残る。
《醍醐寺》
真言宗醍醐派の総本山で山号は醍醐山。
本尊は薬師如来。
貞観16年(874)開祖聖宝(理源大師)が笠取山上に登り、横尾明神よりこんこんと水が涌き出るこの山を譲り受け准胝・如意輪両観音像を彫刻・安置したのが始まりとされる。
延喜7年に薬師堂・五大堂塔が建立され上醍醐が定まり、延長4年に釈迦堂(金堂)が成って下醍醐の基礎が出来た。寺宝類の多くは国宝・重要文化財の指定を受けている。

2024年 10月24日

2024年10月24日

第11回 史跡探訪
訪問先 : 神光院・蓮月尼の墓・大将軍神社 
講 師 : (株)らくたび 山村純也先生
《神光院》北区西賀茂神光院町120
山号は法光山。本尊は弘法大師像で「厄除け大師」として信仰されている。
東寺、仁和寺と並ぶ行政三弘法として有名であり、地元では「西賀茂の弘法さん」の愛称で親しまれている。 
飛鳥時代609年この地に瓦屋寺が建立され、御所な奉納する瓦製作の職人の宿所に使用された。
山門を入った左側に茶室「蓮月庵」がある
幕末の女流歌人、太田垣蓮月尼が慶応2年(1866)から明治8年(1875)までの10年間この茶室に隠棲した。
《大将軍神社》北区西賀茂角社町129
推古天皇17年(609)瓦屋寺の鎮守の社として、創建されたと伝えられている非常に古い神社。桓武天皇の平安京造営に際し、王城鎮護のため京都の四方に「大将軍神社」を祀り当社を北方の守護神としたと伝えられる。

2024年 10月3日

2024年10月3日


第10回 史跡探訪
訪問先 : 京都市考古資料館・首途(かどで)八幡宮・本隆寺
講 師 (株)らくたび 田中昭美先生
《京都市考古資料館》上京区元伊佐町265-1
京都市内の発掘調査により発見された各時代の貴重な考古資料を広く展示公開するため昭和54年11月に開館された。
1階は特別展示コーナー、2階は原始から近世に至る京都の歴史が、遺跡や遺物等約千点に及ぶ考古資料を展示されています。
《首途(かどで)八幡宮》上京区桜井町102-1
もとの名を「内野八幡宮」と呼び、宇佐八幡宮より御神霊を勧請し祀られた社である。
承安4年(1174)源九郎義経は、牛若丸時代に鞍馬山を抜け出して金売吉次と出会い、奥州平泉へ出発するにあたり、道中安全を祈願して出発したという。「首途」とは「門出・出発」の意味でこの由緒により「首途八幡宮」と呼ばれるようになった。
《本隆寺》上京区桜井町330
慧光山と号し、日真上人開創の法華宗真門流の本山である。日真は、室町時代の人で、妙顕寺の日具上人を師とし、研鑽を勤めたが長亨2年(1488)師と意見を異にし、本迹勝劣を主張して妙顕寺より独立し、四条大宮の辺りに建立した草庵に始まる。天文の法難で焼失。明暦3年(1657)に再興。
天明8年の大火で京都の大半を焼きつくしたが本堂、祖師堂は鬼子母神の加護により焼失を免れた。このことから不祥寺(焼けずの寺)と呼ばれるようになった。

2024年 9月19日

2024年9月19日
第9回  史跡探訪
7月後半から9月前半は暑さ対策でホールにての歴史講座を行っていました。本日、2学期最後の史跡探訪を異例の暑さの中、熱中症対策を行いながら実施致しました。
訪問先:旧三井家下鴨別邸・河合神社・下鴨    
    神社・鴨社資料館(秀穂舎)
講 師:(株)らくたび   田中昭美先生
[旧三井家下鴨別邸]
三井家11家の共有の別荘として三井北家(総領家)第10代三井八郎右衛門孝棟によって建築されました。近代京都で最初に建設された主家を中心として、大正期までに整えられた大規模別邸の屋敷構えが良好な保存されており、高い歴史的価値を有しています。
平成23年に重要文化財指定
[河合神社]  
下鴨神社に摂社として古くから祀られ、女性守護として信仰を集めている。
祭神は、玉依姫命(神武天皇の母)で玉のように美しいことから「美麗の神」として信仰されている。
[下鴨神社]
正式名は加茂御祖神社(かもみおやじんじや)です。鴨・賀茂とは、神ということ。御祖とは、親のこと。親神をお祀りしているという意味です。賀茂建角身命(西本殿)と玉依姫命(東本殿)は上賀茂神社の御祭神の祖父と母にあたります。
[鴨社資料館]
第三十四回式年遷宮奉祝事業として、旧社家邸の保存と継承を目的に、旧鴨社学問所絵師浅田家邸を整備し、所蔵資料の展示を行っている。

2024年 7月11日

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8回 史跡探訪

訪問先 : 報恩寺   百々橋址 妙顕寺

 講 師 : (株)らくたび 山村 純也先生

 

報恩寺の正式名称は「堯天山佛(ぎょうてんざんぶつ)()院鳴(いんなき)(とら)報恩寺(ほうおんじ)」といい、浄土宗総本山知恩院の末寺です。客殿(方丈)に安置する本尊阿弥陀三尊像(鎌倉)をはじめ、後柏原天皇御下賜の什宝など多数を有しています。

「鳴き虎の報恩寺」と呼ばれ、江戸時代から知られた名刹です

 

百々橋址は宝鏡寺の門前東、寺之内通の小川に架かる小さな石橋をいい、その東の辻を「百百の辻」とよびました。『今昔物語』には夜更けにこの橋上で、青い着物を着た妖女に出会ったという話を紹介し、古くから知られた橋です。

 

 妙顕寺は、具足山と号し、龍華院ともいう日蓮宗の大本山の一つです。

鎌倉時代後期、元亨元年(1321年)に日像上人が、日蓮聖人の遺命を受け、創建された洛中における日蓮宗最初の寺院です。

 また、建武元年(1334年)後醍醐天皇により法華経布教の勅旨を賜り、勅願寺として栄え洛中洛外の宗門の第一となり、四海(しかい)唱導(しょうどう)(みょう)顕寺(けんじ)とも称されました。

 

天明8年(1788年)大火によって焼失しましたが、天保5年(1834年)に再建されました。いくつかの庭園、本堂も見どころで、庭園の一つに有名な芸術家尾形光琳ゆかりの庭園もあります。

2024年 7月4日

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7回 史跡探訪

訪問先 : 水火天満宮 本法寺 妙覚寺

 講 師 : (株)らくたび 田中 昭美先生

 

水火天満宮は古くは、水火天(すいかてん)神社(じんしゃ)とも呼ばれていました。御祭神は、平安時代の政治家で漢詩人・学者として有名な菅原道真公です。都の水害・火災を鎮める為に、第六十代醍醐天皇の勅願で道真公の師でもあった延暦寺第十三代天台座主尊意僧正に命じられ、延長元年(923年)『水火の社天満自在天神宮』という神号の勅許を醍醐天皇より賜り、「日本最初の天満宮」として、道真公の心霊を勧請し建立されました。

 

本法寺は永享8(1436)日親上人が本阿弥清信の外護によって創建された日蓮宗京都十六本山の一つです。永享八年(1436)に東洞院綾小路で造られた「弘通所」が始まりとされています。その後、永享十二年(1440)に、日親上人の幕府諫暁が原因で破却され、康正年間(145557)に四条高倉で再建したが、寛正元(1460)2度目の破却に遭い三条万里小路に移転して、日親上人はこの寺を一門の中心地に定めています。その後、天文五年(1536)の法難によって一時は都を追われ、後に一条戻橋付近で再興し、さらに天正十五年(1587)、豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備の影響で、堀川寺之内へ移転して今日に至っています。

 

 妙覚寺は南北朝時代の永和4年(1378)、龍華院日実上人が信徒の小野妙覚の援助によって創建した日蓮宗の寺で、三具足山と号し、日蓮宗三具足の一つです。

 

天正10年(1582)信長の嫡子信忠が当寺に宿泊していたために明智勢に攻められ、信忠は自害し、寺もまた焼亡した。翌年秀吉の都市改造政策によって現在の地に移りました。文禄年間(159296)日奥上人は不受不施説をとなえ、方広寺大仏千僧供養に加わらなかったことは有名です。

2024年 6月13日

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第6回 史跡探訪

訪問先 : 大仙院・龍源院・若宮八幡宮・玄武神社・

小野篁・紫式部の墓

講 師 : (株)らくたび 山村 純也先生

 

大仙院は、大徳寺の塔頭寺院で、永正6年(1509)に大徳寺76世

古嶽宗亘大聖国師によって創建された。現在22に及ぶ大徳寺塔頭中、

北派本庵として最も尊重重視される名刹である。方丈は大徳寺境内で

最も古い禅宗極殿建築で国宝に指定されています。

 

龍源院は、 大徳寺 南派の祖・東渓宗牧(とうけい そうぼく)を開山として、

能登(石川県)の領主・畠山義元、九州の都総督・大友義長(大友宗麟の

祖父)、周防の大内義興らの戦国大名が創建しました。 方丈を中心とし

て、南庭(一枝担)、北庭(龍吟庭)、東の壺石庭(東滴壺)、開祖同前庭

(鶏足山)、および庫裡南軒先(滹沱底)の庭園があります。

 

玄武神社は、文徳天皇の皇子である惟喬親王を祀り、別名惟喬社と呼ば

れている。親王は第一皇子であり、聡明な方で、父の文徳天皇の愛情も

ことの他深く、皇太子になることが予想されていたが、嘉祥三年三月

(八五〇)当時に最も権威を誇っていた藤原良房の娘で、女御である

藤原明子が第四皇子の惟仁(これひと)親王を誕生するに及び、天皇は

良房をはばかられて同年十一月に生後僅か九ヶ月の同親王を皇太子と

された。惟喬親王は第一皇子として生まれながらも、その生涯、国の中央

の政治の圏外を歩まれることとなったが、早くから時勢を観察せされ、

山崎水無瀬に閑居して詩歌吟詠などを以て過ごされた。また、現在でも

 轆轤の始祖としても崇拝されている。

2024年 6月13日

2024613日 第5回 史跡探訪

訪問先 :  櫟谷七野神社・妙蓮寺・雨宝院(西陣聖天)

        岩上神社

  講 師 : (株)らくたび 田中 昭美先生

 

櫟谷七野神社は、舟岡山の南東に位置し、貞観元年(589

春日明神を勧請して内野・北野・萩野・蓮台野・紫野・上野・平野の

七野の惣社として祀られたと伝えられる。

この神社に、離れてしまった天皇の愛を復活させてほしいと祈った

のは、59代宇多天皇(894年)の皇后。社前の白い砂を三笠山の

形に積み、祈願せよと のお告げを得て、その通りに砂山を作り

祈った所、天皇の愛情が戻ったという。それ以来、社前に白砂を

積めば浮気封じ・愛の復活の願いが叶うといわれ、社前 に積む

砂も「高砂山」と呼ばれる様になった。

 

妙蓮寺は本門法華宗の大本山で山号は卯木山、本尊は十界曼荼羅。

山門の手前に左側に「華洛最初日像菩薩脱履道場」の石柱が立つ。

開山である日像上人が永仁二年(1294)日蓮の遺命を受けて弘教の

ため、関東から京都に赴いたおり、草履を脱いだ道場として創建された。

 

雨宝院は,北向山と号し真言宗泉涌寺派。本尊は大聖歓喜天で西陣

聖天と呼ばれている。弘仁十二年(821)嵯峨天皇の病気平癒に空海が

六臂歓喜天を刻して祈祷したことに始まる。観音堂には藤原時代の

 木造千手観音立像(国指定重要文化財)を安置する

2024年 5月30日

2024年5月30日 第4回 史跡探訪

訪問先 :  西運寺・月橋院・乃木神社

  講 師 : (株)らくたび 山村純也先生

 

西運寺(狸寺)は、京阪宇治線「観月橋駅」から東へ200Mの所にあります。

松風山西運寺と称し1596年(安土桃山時代)、雲海大和尚により宇治川対岸の向島橋詰町に創建された。1686年(江戸時代)、西運寺5世義運上人の時、幕令により現在地の上総屋敷跡を下付され移転する。

江戸末期頃、冠道和尚が裏山に住む雌狸に餌付けをして「八」と名づけた。和尚が手を叩くと山から下りて来るようになり、以来寺は賑わい「狸寺」と呼ばれるようになった。

 

月橋院は、曹洞宗の寺院で「指月山月橋院」いい、南北朝時代~室町時代、伏見宮栄栄仁親王は大通院指月庵を結び隠棲した。室町時代、後土御門天皇が父の菩提の為「指月庵般舟三昧院」を建立したが、秀吉の伏見城b築城に伴い洛中に移転。その跡地に真言宗「円覚寺」が建立され、そこに秀吉と親交があった越前武生の金剛院の亀州宗鶴和尚を住職に招き、曹洞宗に改め、旧友のもとを訪れ月見の宴を楽しんだ。

 

 

乃木神社は、明治天皇の後を追い夫婦で殉死した乃木希典命、乃木靜子命を祀る神社。死してなお明治天皇を守るかの如く御陵の麓に創建されました。広い境内には日露戦争の旅順攻囲戦の指揮を取った第三軍司令部が移築され記念館として展示されています。復元された長府乃木邸や昭和天皇の教育係を務め学習院院長時代の胸像など見どころもあり、ここにも伏見の名水のひとつ勝水が御神水として湧き出ています。

2024年 5月23日

訪問先 : 黄檗山宝蔵院・黄檗山萬福寺

講 師 : (株)らくたび 田中昭美先生

 

 黄檗山宝蔵院は、1669年に「一切経(大蔵経)の大量印刷を志した鉄眼禅師が、隠元禅師から黄檗山内に寺地を授かり、蔵版・印刷所として建立したものです。

「一切経」とは、一切合切という意味合いであり、全6,956巻、仏教宗派で使われているお経は、すべてこの「一切経」のうちに含まれています、

鉄眼版一切経版木は、昭和32年に収蔵庫内の約6万枚のうち約4万8千枚の版木が国の重要文化財に指定され、350年以上経過している今現在も、手刷印刷することが可能です。

 黄檗山萬福寺は、江戸時代承応3年(1654)中国福建省かr渡来した隠元隆琦禅師が後水尾法皇や徳川四代将軍家綱公の尊崇を得て、寛文元年(1661)に開創された寺院であり、日本三禅宗(臨済委・曹洞。黄檗)の一つ、黄檗宗の大本山です。他の二つの禅宗と黄檗宗が大きく違う点は、中国的な特徴を色濃く残しているところです。

2024年 5月16日

2024年5月16日

第二回 史跡探訪

訪問先 : 橋姫神社・縣神社・平等院

講 師 : (株)らくたび 山村純也先生

橋姫神社は、孝徳天皇の大化2年(646)南都元興寺の僧、道登が勅許を得て始めて宇治橋を架けるにあたり、その鎮護をいのるため、宇治川上流に鎮座瀬織津姫の神を橋上に祀った。橋姫は平安時代以来、多くの歌人よって数々の歌に詠まれ{源氏物語}の宇治10帖もまず橋姫から始まっている。

縣神社は、社伝によれば永承7年(1052)藤原頼通が平等院建立に際し。その鎮守社としたといわれ、明治維新までは三井寺円満院の管理下にあったが神仏分離によって独立した。本殿は拝殿と共に安政年間の再建であるが、建物細部にわたって華麗な彫物がみられ、近世に於ける当社の繁栄がしのばれる。

平等院は永承7年(1052)、関白藤原頼通によって父道長から伝領した別荘(平等院)を寺院に改め創建されました。その翌年の天喜元年(1053)に阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が建立され、その建物が現在鳳凰堂と呼ばれている。

2024年 5月9日

2024年5月9日 第一回 史跡探訪

訪問先 :  放生院・宇治上神社・源氏物語ミュージアム

  講 師 : (株)らくたび 田中昭美先生

       

 第1回、第2回は本年度の大河ドラマ「光る君へ」に関連した宇治を訪問

 

放生院(拝寺)は、推古天皇の(604)に聖徳太子の発願により秦河勝が建立、聖徳太子の年持佛地蔵菩薩を祀り、常光寺地蔵院としたのが始まりです。

大化2年(646)に南都元興寺の僧、道登の尽力により宇治川に初めて橋が架けられた時に堂塔を建立、その後天災等のため荒廃しましたが、鎌倉時代の(1281)に叡尊律師により再興された際、先の尊像を模して本尊も造立されました。

重要文化財、本尊地蔵菩薩立像は、面長のひきしまった面相で色鮮やかな袈裟をまとわれた菩薩様です。

 

宇治上神社は、世平成6年に世界文化遺産に登録され、本殿(国宝)は最古の神社建築と云われ、覆屋(国法)に囲まれた独特の形をしています。拝殿(国宝)は紫宸造の遺構とされ、切妻造・檜皮葺きに槌破風を付した優美な建築です。

 

源氏物語ミュージアムは紫式部が書いた源氏物語五十四帖の中の最後を飾る「宇治十帖」の舞台となった世界をわかりやすく紹介しています。源氏物語と平安時代の文化に親しめる世界で唯一のミュージアムです

 

 

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